三島由紀夫と楯の会――理想を生きようとした人

三島由紀夫と楯の会――理想を生きようとした人


三島由紀夫という名前を聞くと、多くの人はまず華麗な文学作品や、美しい日本語を思い浮かべるかもしれません。でも、彼の人生にはそれだけでは語りきれない、もうひとつの大きな側面がありました。それが「楯の会(たてのかい)」の存在です。

私は、この楯の会をめぐる三島の行動力に、ただただ驚いてしまいます。言葉だけではなく、自らの体を使って理想を形にしようとしたその姿は、今の時代に生きる私たちにも、何か大切なことを教えてくれるように思います。

なぜ楯の会を作ったの?
楯の会が誕生したのは、1968年のこと。当時すでに国際的な評価も高かった三島由紀夫は、突如としてこの団体を結成します。目的はというと、日本の憲法、とくに「戦争を放棄する」とうたった第九条を改正して、日本が本当の意味で「自立した国」となること。そして、日本の伝統的な価値観や天皇を大切にする心――いわゆる「国体」を守りたいという思いがありました。

戦後の日本は急速に経済成長を遂げていきましたが、三島はその一方で「精神の貧しさ」が広がっていると感じていたようです。豊かになる一方で、日本人としての誇りや、国家に対する意識が薄れていくことに危機感を抱いていたんですね。

だからこそ、彼は「言葉」だけで訴えるのではなく、「行動」で自分の信念を伝えようとしたのです。それが楯の会の結成につながっていきます。

どんなことをしていたの?
楯の会のメンバーは、多くが大学生でした。中には非常に優秀な学生も多く、三島の思想に共感して集まってきた人たちばかりでした。

彼らは制服を着て、自衛隊の施設で訓練を受けていました。体力づくり、行進、武道の練習、そして礼儀作法など、まるで本当の自衛隊のような生活をしていたそうです。三島本人も一緒に訓練に参加し、若者たちと同じように汗を流していたのが印象的です。

ですが、楯の会は決して過激な団体ではありませんでした。暴力的な活動を行っていたわけではなく、むしろ精神的な強さを育て、立派な人間になろうとする真面目なグループでした。「理想を実際に生きる」という意味では、文学の延長線にあったとも言えるかもしれません。

三島の最期と、その後
1970年11月25日。楯の会の名前は、日本中を驚かせる事件とともに広く知られることになります。

その日、三島は楯の会のメンバー4人とともに、東京の市ヶ谷にある自衛隊の施設に入りました。そして、ある部屋にいた司令官を一時的に拘束したうえで、バルコニーから自衛隊員たちに向けて演説を始めます。

内容は、「日本のために立ち上がってほしい」「憲法を改正し、真の国を取り戻そう」といったものでした。しかし、その呼びかけに応じる声はありませんでした。

その直後、三島は自ら命を絶ちます。しかも、日本の古来の武士が名誉のために行った切腹という方法を選んだのです。そして彼の最も信頼していた会員、森田必勝(もりた・まさかつ)も、あとを追うように命を絶ちました。

この事件は「三島事件」や「市ヶ谷事件」として、今でも多くの人々の記憶に残っています。三島が本気だったこと、そして言葉だけではなく命を懸けて理想を表現しようとしたことに、私は衝撃を受けました。

事件の後、楯の会は自然な形で解散しました。生き残った会員たちは、その後それぞれの人生を歩みましたが、公の場で楯の会について語ることはほとんどなかったそうです。

おわりに――理想に向き合う姿勢
三島由紀夫と楯の会。その物語は、今の私たちからするとどこか遠い世界の話のように感じるかもしれません。でも、「自分の信じることに本気で向き合う姿勢」や「理想のために行動する勇気」は、時代を超えて心に響くものがあります。

もちろん、三島のやり方がすべて正しかったとは言えないかもしれません。でも、彼の覚悟や真剣さ、そしてその行動力には、心を打たれます。

今の世の中でここまでのことをする人は、なかなかいないでしょう。それだけに、三島由紀夫という人がどれだけ本気だったのか、改めて感じずにはいられません。

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